高 山 樗 牛
明治4年(1871)〜明治35年(1902)文学者。 官吏斉藤親信の子として鶴岡市高畑町に生まれ、2歳の時叔父の高山久平の養子となる。幼少の頃より秀才といわれた。父の転勤で各地を転々とするも、19年父の退官と同時に上京日本英語学校に入学、21年仙台の旧制二高に入学、29年東京帝国大学文学科大学哲学科を卒業し、母校仙台の旧制二高の教授に招かれるも翌30年に再度上京した。薦めもあって博文館に入社し文芸活動を行う。 大学在学中に読売新聞社の懸賞に首位入選した歴史時代小説「滝口入道」が脚光を浴び新聞に連載される。28年の大学の機関誌「帝国文学」の編集委員となり道徳の理想、人生論を論じ「近松門左衛門」の論文で文壇に認められた。 30年には当時最高の文学雑誌「太陽」の主幹として活躍している。彼は小説家と云われるを嫌い主として評論で名声を高めていった人物である。 思想の変遷が著しく激しく浪漫主義、日本主義、ニーチェ主義そして日蓮主義へと次々と変わって行ったので少なからず批判もあった。 樗牛のペンネームは、すでに旧制二高当時から使用されており、在学中より校友雑誌に投稿していた。晩年の欧州留学を前に肺の病気が再発悪化して断念、やがて母校東京帝国大学に向かえらりて文学教授となるも32歳の若さで亡くなる。 鶴岡公園内に「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」の碑が残っている。 主な著作:「滝口入道」、「美的生活を論ず」、「奈良朝の美術」(これで文学博士となる)、「日蓮とは如何なる人ぞ」、「日蓮と基督」、「日蓮上人と日本国」 |
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参考図書 荘内人名辞典他 |